会報aile65号(2009年1月号)
つながればささえあえるしわけあえる
特定非営利活動法人我がまちの縁側代表理事
1957年刈谷市銀座生。25から31歳まで喫茶店を経営。
その後、タウン誌の編集、派遣会社のスタッフ管理などを経て、36歳で高齢者介護に従事。12年間特別養護老人ホームに務めた後退職。
2006年「起業の学校」(二期)へ。2007年7月NPO 我がまちの縁側設立。同11月駄菓子屋 紙ふうせん併設デイサービスセンターだいふくを開業。
※酒井まゆみさんは2009年8月、志半ばにして、お亡くなりになりました。心からのご冥福をお祈り申し上げます。この記事は、酒井さんの起業への想いを次へつなげるために掲載し続けております。
事業概要
〒448-0844 愛知県刈谷市広小路6丁目96番地1
Tel:0566-63-6803
Fax:0566-63-6840
E-mail:npo-wagamachi@katch.ne.jp
■事業理念
子供から高齢者まで、住民一人ひとりが安心して“その人らしく”主体的にイキイキと暮らすことのできる地域社会にしたい
■事業内容
介護予防通所介護・通所介護「デイサービスセンターだいふく」、子供の交流スペース事業「駄菓子屋紙ふうせん」、高齢者いきがい支援事業、地域住民交流スペース事業、まちづくりサポート事業、福祉事業所間ネットワーク事業
つながればささえあえるしわけあえる
2008年11月16日。数日続いていた雨も上がり、肌寒さのなかにも、暖かな日差しが降注ぎはじめた昼下がり。刈谷市産業振興センター小ホールでは、NPO法人我がまちの縁側の1周年記念イベントに150名を超える参加者が集っていた。地域で活動する様々な団体の活動紹介、ミニコンサート、そして新潟で助けあい支えあえる地域づくりに取り組む先達・河田珪子さんの講演会と趣向のこらされたそのイベントは、単に1つのNPO法人の1周年記念という枠を超え、地域の仲間たちとともに、地域を想い、その未来を描き、つながりを紡ぐための場となった。起業してからの毎日を「あらゆる感情を味わい尽くした1年でした」と酒井さんは振り返る。
「苦渋も、焦りも、憤りも、切なさも、そして大いなる喜びも。ほんっとに感情の揺れ幅はこれまでにないほど大きかった」と。
でもね、と酒井さんは続ける。
「その感情はすべて、人との関わりから生まれてきたんだ、と思うと、心の底から、幸せを感じました。ああ、生きてるんだなって」。
自らの矛盾に目をそらさず
酒井さんは、起業前、12年間、特別養護老人ホームに勤務していた。介護福祉士、ケアマネージャーの資格も取得し、他のスタッフのまとめ役としても活躍していた。多くのお年寄りと関わりながら、誰もがその人のたった一度の人生を生き、そして死を迎えること、それが“自然”なのだ、と学んだという。
そんな中、母親が病に倒れた。入院を経て、介護が必要な状況になった母親を自宅で介護しながら勤めを続ける日々。そのとき、どうしても消すことのできない想いが生まれてしまった。「在宅で看取りたい…。施設には入れたくない…」。
自らが施設で現場を統括する立場にありながら、家族は施設に入れたくないと感じてしまうことの矛盾と葛藤に苦しみながらも、酒井さんはそこから逃げることをしなかった。それはそれ、これはこれ、と切り分けて、考えることを止めてしまうこともできたに違いない。が、酒井さんは、老人介護とは何か、ケアとは何か、という問いに真正面からぶつかっていった。
その後、佐藤義夫氏、高口光子氏といった先達に出会い、まず事業ありきではなく、目の前のその人を放っておけないから手助けする、どのような状況にあってもその人らしく生ききるための援助をする、というシンプルな、そして深いケアの本質にたどり着いたという。いつしか酒井さんの中には、起業という未来の姿が見え始めていた。
刈谷の町の中で、本当に誰もがその人らしく、生きていていいんだと思えるようなデイサービスをつくろう。特別養護老人ホームをやめたときに、既にその構想はできていた。しかし、それだけでは何かが足りない…。考えて考えて考えているうちに生まれたアイデアが、駄菓子屋を併設し子どもたちも集う場にしよう、というものだった。
「おじいちゃんやおばあちゃんが店番をしている駄菓子屋で、子どもたちが10円玉握り締めて目をきらきらさせながらお菓子を選んでいる姿がぱーっと映像として見えちゃったんです(笑)」。
考え抜いたことから生まれた揺るがぬ理念
とはいえ、本当にこれでいいのか、どんな準備をしていけばいいのか、と不安はあった。そこで起業支援ネットの「起業の学校」に2期生として入学。
「起業の学校に入学しても、悩みは減らずにむしろ増えたんですけどね(笑)。だって、起業の学校のカリキュラムって、とことん自分と向き合わざるをえないようになってるじゃないですか。でも、あの考え抜いた時間があったからこそ、今、ぶれない軸を自分の中に持つことができる。それは本当に感謝しています」。
起業の学校の卒業は、すなわち酒井さんにとっての事業開始準備のスタートでもあった。卒業後、卒業生対象のフォローアップ指導も受けながら、仲間を募り、不動産物件を探し、営業に走り回る日々がはじまった。
「そりゃぁもう、いろんなことがありました。思ったとおりに進まなかったことも一度や二度じゃない。上手くいかないときは、本当に落ち込んで、本当にやっていけるのか、自分の選んだ道はこれでよかったのかって悩んで。でもね、今思うと、上手くいかなかったことにはそれなりの理由があったんです。ちゃんと理念に基づいて動いているか、ちゃんと考えているかって、何かから問われてたんですよね。そう思うと、無駄なことなど何一つないと思えるんです」。
昨年11月に“デイサービスセンターだいふく”と“駄菓子屋紙ふうせん”がオープンしてから数ヶ月は、利用者数が思ったように伸びず、経営的に苦しい時期もあった。だが、酒井さんもスタッフも、出会う人ひとりひとりに、「我がまちの縁側」の理念を丁寧に誠実に伝えていった結果、少しずつ利用者も増えていった。現在は安定した経営ができるようになったという。
「介護は人相手の仕事ですから、経営者としてどんなに悩んでいても、それを人に見せることはできません。こちらが元気でないと。でも、一方で、深い認知症の方が、ふと私の頭をなでてくださって、そのことに本当に救われたこともあります。支えあいの循環って、奥が深いんです」。
「利用者さんお一人の申込がこんなに嬉しいなんて、施設に勤めていた頃は想像もできなかった」と笑う酒井さん。一人一人との関わりを心から喜びながら、1年間の歩みに確かな手ごたえを感じている様子が伺える。
縁側から茶の間へ広がる輪
そんな酒井さんの次なるステップは?と聞くと、即返事が返ってきた。
「来年度からは、地域の茶の間事業をはじめたいんです」。
起業準備中から、仲間たちと月1回の勉強会を行ってきた。それを更に発展させて、地域を巻き込んだ形にしていきたいという。
「まだまだ地域には居場所がないと感じている方がいると思うんです。うちのデイサービスでも、居場所のない友人を連れてきてもいいか?とおっしゃる利用者さんがいらっしゃったり、手伝いたいと飛び込んできた方によくよく話を聞いてみるとご自身が様々な困難を抱えていたり…。高齢者に限らず、だれもが自分の居場所があると感じられて、生きていていいんだ、ありのままでいいんだ、と思える場所をつくりたい」。
縁側から進んで茶の間へ。次から次へと事業を深化させていく様子に目を瞠っていると「目の前に困っている人がいる。そして、頑張れば自分にもできることがある。それがみえちゃったら、やるしかないじゃない?」と極上の笑顔が返ってきた。
酒井さんは今年、刈谷市の市民ワーキング会議の委員としてまちづくりに参画していた。市としての事業終了後も、そこに集った有志で更に想いを形にしようというグループが結成された。名づけて「刈谷のまちをよくし隊」。酒井さんはその隊長でもある。様々な人や活動をつなぎながら、まちを元気にする。そして、だれもが安心して暮らすことのできる地域をつくる。理念にむかって酒井さんの歩みはこれからも続いていく。
例えようもない不安に押しつぶされそうになったこともある。心無い地域の方の一言に、町にでることさえ怖くなったこともある。それでも今は、「地域ってあったかい」と思える。すべてのことやものに感謝することができる。そしてそんな自分を好きだと思える。
「全てが、前に一歩踏み出さなかったら、出会えなかっただろうし、わからなかったんだろうと思います。不思議なことに、ちゃんと自分ひとりでリスクを背負っていこうと決めたときから、自分はひとりじゃない、周りは助けてくれるということも信じられるようになったんです」。
酒井さんのこの言葉は、今起業に向かっている人へむけての何よりのエールかもしれない。
きっと今日もデイサービスセンターだいふくでは、利用者さんの笑顔がこぼれていることだろう。
たくさんの人生が交差する場所。たくさんの頑張る人が、ふっと肩の力を抜き、腰掛けることのできる場所。
そう、それは、まさに「我がまちの縁側」だ。
取材・文/久野美奈子 写真/河内裕子(写真工房ゆう)