会報aile83号(2012年1月号)
小さな声を集めてつなぐ~アレルギー支援という新たな社会づくりへの取り組み~
NPO法人アレルギー支援ネット 事務局長
教育出版系企業に6年間務めたのち、結婚・出産。アレルギーを持つ子どもの母となったことをきっかけに、「岡崎アレルギーの会」を設立。その後「アレルギーの会全国連絡会」への参加を通じて「NPOアレルギーネットワーク」に参画。2006年NPO法人アレルギー支援ネットワーク設立にともない、理事兼事務局長に就任。各地での患者会設立・運営支援、アレルギー大学の運営、普及啓発活動に奔走中。
事業概要
〒453-0042 愛知県名古屋市中村区大秋町2丁目45-6
電話:052-485-5208
FAX:03-6893-5801
E-mail:info@alle-net.com
■事業理念
アレルギー問題の解決のために医療関係機関や自治体・企業などと協働・連携する事業活動を行い、様々な人々とのネットワークを広げる
■事業内容
アレルギー問題解決のための
1.科学的知識の普及
2.各分野・個人への経験交流
3.問題解決のため、行政や他の分野との協働・連帯・支援
4.アレルギー・アトピー・化学物質過敏症の患者支援、会の設立・運営支援
等
厚生労働省の調査によると、日本人の3人に1人が皮膚、呼吸器、目鼻などに何らかのアレルギー症状を抱えているという(平成15年保健福祉動向調査)。成長とともに症状が緩和していくケースもあるが、アレルギーの原因は食べ物、ハウスダスト、ダニ、花粉、ペットなど多岐にわたり、またアレルギー症状をもちながら日常生活を営んでいくことには大きな苦労を伴う。また、ときにアナフィラキシーショックと呼ばれる急性症状を発症すると、呼吸困難や血圧低下により命に関わることもある。
「これだけアレルギーが増えているにも関わらず、まだまだ正しい知識や情報が当事者の方々をはじめ、栄養士や保育士などの専門職の方々や、医療従事者にも届いていないのが現状です」
と語るのは、NPO法人アレルギー支援ネットワーク(以下、アレルギー支援ネット)・事務局長の中西里映子さん。医学の進歩により、治療方法も大きく変化しているが、そのことを知らない人も多いという。
アレルギー支援ネットは、アレルギーに関する正しい情報の普及とともに、アレルギーを持つ当事者や、アレルギーのお子さんを育てている親たちが社会的に孤立することを防ぐための支援活動、さらには、医療機関や行政、企業等の働きかけなど多岐にわたる活動を展開している。
2011年3月11日に起きた東日本大震災のときのこと。当日の夜、札幌から、『友人の子ども(卵・甲殻類のアレルギー)が仙台市の避難所にいます、助けて下さい!』というメールが入った。避難所に子どもが食べられるものがない、というSOSの声だった。中西さんをはじめとするアレルギー支援ネットのメンバーは、その日から被災地のアレルギー患者支援の準備を開始、翌々日の13日にはK理事が現地に入りアレルギー対応食品をいくつかの拠点に届ける事ができた。震災後1週間で20件以上の個別案件に対応、同時に個別に情報をやりとりすることが出来ない方々に向けての現地でのしくみづくりを、全国のアレルギー支援団体やボランティア、企業、行政等との連携により行い、アレルギー患者に特化した支援物資調整&提供・医療機関案内・避難生活アドバイスなどを行ってきた。
自分が必要なものを自分でつくる
事務局長の中西さんがアレルギーの問題と出会ったのは、自分自身の子育てを通じてのこと。お子さんに重度の食物アレルギーがあり、卵・牛乳・小麦・大豆など食べられないものがたくさんあった。当時愛知県岡崎市に住んでいた中西さんだったが、名古屋の病院でアレルギー治療をうけながら、同じ病院に通っている近所の仲間とともに「岡崎アレルギーの会」を立ち上げた。アレルギーの子どもを持つ母親たちが抱えている寂しさや悩みを分かち合うためのおしゃべり会や、アレルギーの子どもたちのキャンプやスキーなどを企画した。
「当時は今以上にアレルギーの子どもは少数派でしたから、学校給食が食べられない子どもはお弁当を持っていったりしていました。友達と遊んでも自分だけお菓子が食べられなかったり。子どもの中にもどうして自分だけ…という気持ちはあったと思います。そんな中で同じ立場の子ども同士だと気楽に遊べたのです」。
楽しく助けあって子育てをしたい。自分たちが必要なものを自分たちでつくる。そんな気持ちからはじまった活動だった。
出会いとつながりの中で
活動を続ける中で、全国のアレルギーの患者家族や関係者がゆるやかにつながる「アレルギーの会全国連絡会」の交流会にも参加するようになった。
「当時、すでに、アレルギー支援ネットの前身であるアレルギーネットワークという団体が立ちあがっていたんです。そこの方が、阪神淡路大震災の折のアレルギー患者支援の報告をされていて、おお、これはすごい!って思ったことを覚えています」。
そこでできたつながりから、今度は名古屋での全国交流会運営にも関わるようになっていった。
「そこからは、もうずぶずぶと(笑)。子どももだいぶ大きくなっていたこともあって、お手伝いできることがあればしますよと言っていたら、ここまで来ちゃったんです」
と中西さんは笑う。
その後、アレルギーネットワークの中で企業や自治体などと連携する事業部の活動領域が広がって独立して活動することになり、2006年、事業部門を担うNPO法人アレルギー支援ネットが設立され、中西さんが理事兼事務局長に就任。アレルギー大学(医療・栄養・食品・教育・保育・調理・企業等の専門家を対象としたアレルギーの知識や調理技術などを学びアレルギーのプロを養成するための教育事業)の運営などアレルギー専門の医療関係者や研究者を核とする理事とともに一歩ずつ歩みを進めてきた。
「設立から3年ほどは、わたしの自宅が事務所だったんです。もう書類やら何やらで自宅があふれかえってました。そこで、COMBi本陣に入居することになったんです」。
事務所を自宅に置いていたときは、
「仕事も暮らしも目いっぱいのすさまじい毎日でした(笑)」
と中西さん。
「でも、楽しかったですよ。多分嫌だったらここまでやってこれなかった」。
プロセスという「仕事」の楽しさ
何がそんなに楽しかったのだろう?そう尋ねると、
「うーん、仕事をする、仕事を回していく、という醍醐味が味わえたことかな?」。
という答えが返ってきた。
前述のアレルギー大学の立ち上げは、保育園を対象とした調査から見えてきたニーズにヒントを得たものだ。
「アレルギーを持った子どもたちも、いつもまでも家庭にいるわけではなく、保育園、小学校と“社会”に出て行く。そのときに、受け入れる側に少しの配慮があれば、子どもたちが自分らしくのびのびと生きられるのに、それがないのはなぜなんだろうと。そこでまずは保育園を調査したところ、現場の先生方もどう対応したらいいのか悩んでいるということが見えてきました。やはり、知識や情報がない。そしてそれを学びたいという気持ちはあるものの、学ぶ場がなかったり、自費では無理、ということもわかりました」。
そのニーズを元につくられたアレルギー大学は、対象をアレルギー患者に関わる専門家に絞り、最新かつ高度な情報・実習を詰め込んだまさに「大学」という名にふさわしいカリキュラム。現在は、千葉県や新潟県でも実施されており、そのしくみを全国に広げつつある。
「ニーズをつかみ、検証し、実施し、次の展開につなげるという一連のプロセスが面白い。今、自分の年齢で再就職してもこういうプロセスに関わる仕事をするのは難しいと思うのですが、ここではそれができるんです」。
アレルギー大学は、更なるニーズにこたえようと、現在、インターネットでの受講のしくみも構築中だ。
小さな声から新しいしくみづくりへ
アレルギー支援ネットでは、「アレルギーっ子の緊急防災対策」等、アレルギー支援のしくみづくりにも力を入れている。例えば、震災時に自らの情報が提供できるかどうかはアレルギー患者にとっては死活問題だ。もしアレルギーを持つ子どもが親と別々の場所で被災した時も患者情報が適切に専門家に伝わるように、患者情報を事前に登録し、その登録内容にアクセスするため登録番号を印字したシリコンバンドを身につけることを勧めている。
一人ひとりのいのちを守るために。個別のニーズにより的確に正確に応えていくために。だからこそ「しくみ」をつくる。そして「しくみ」を広げる。
「アレルギー患者の声はまだまだ社会に十分に届いていない。そこをつなぐことがわたしたちの役目だと考えています」
と中西さんは語る。
こうした受益者負担のみでは対応が難しいしくみづくりについては、助成金も活用している。
「助成金を取ると、ちゃんと成果をださなきゃいけないでしょ?計画も立てないといけないし、報告書も書かないといけない。そういう状況もバネにしてやってきているところはありますね」。
様々な助成や支援を最大限活用し、中期ビジョンを持って活動する。その積み重ねを着実に行っているのが、アレルギー支援ネットの強みなのかもしれない。
次の世代への恩送り
中西さんが「しくみ」づくりとともに取り組んでいるのが「人づくり」。各地でアレルギー問題を抱える当事者や親のグループ活動の設立及び運営支援を行っている。
「今、東海地域には40ほどのグループがあります。自分の住んでいる地域にこうしたグループがあれば、ちょっとしたことでも相談できたり、励ましあえたりするし、最新の情報を取り入れることもできるようになります」。
各市町に最低一つはこうしたグループができると良い、と中西さんは力を込める。会に出向き、お母さんたちを相手に話をしたり、会の運営方法の相談に乗ったり。
「社会の課題に対して、自ら問題解決に取り組もうとする人が増えることが大切。一つ一つは小さな声でも、それらを集めて発信していけば、社会を変えていくことができる」
と語る中西さんの言葉の背景には、自らのかつての子育ての日々がある。
「あの頃、もし今の自分の知識やネットワークがあれば、自分の子どもにも、もっと違うことがやってあげられたのではないか、という想いはあります。でも、時間は戻らない。だったら、次の世代に向けて、伝えていくしかない」。
自分の残りの人生は、この活動に投じようと決めたという中西さん。自分自身の辛かった日々、いろんな先輩お母さんからもらったアドバイスの言葉、アレルギーという問題の当事者だったからこそ出会えた人々。それらを胸に秘め、次の世代に受けた恩を返していくこと。
「それ以外に自分にできることはないですから。大げさにいえば、これが私の使命、かな」。
そう語る中西さんの言葉に、そして未来を見つめるそのまなざしに迷いはない。
取材・文/久野美奈子 写真/木村善則