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会報誌「aile」vol.71

会報aile71号(2010年1月号)

働くとは傍を楽にすることなり ~地域の役に立つ生活支援企業を目指して~



岩村 龍一さん
株式会社コミュニティタクシー 代表取締役

昭和36年3月、多治見市生まれ。
愛知工業大学卒業後、地元ダンボールメーカーに3年勤務の後、1年のフリーター生活を経て、家業である借金まみれの運送業に従事。業績急伸なるも、一変して倒産の危機に直面。失意の底から無一文で「市民タクシー構想」をぶち上げ、平成15年1月、株式会社コミュニティタクシーを設立。同時に代表取締役就任。
コミュニティビジネスの好適事例として、中小企業庁所管「JVA2006地域貢献賞」受賞、日本財団「市民が選ぶCSR大賞」ノミネート、経済産業省「ソーシャルビジネス55選」受賞他。

事業概要


株式会社コミュニティタクシー
〒507-0074
岐阜県多治見市大原町5-99-3
TEL:0572-20-1717
FAX:0572-29-4888
URL:http://www.comitaku.com/
■事業理念
利潤追求のみに傾倒することなく、お客様・社員・会社のトライアングルが相互に感謝の気持ちで結ばれる生活支援企業を創り出す。
■事業内容
・一般乗用旅客自動車運搬事業
・便利屋サービス事業
・一般貸切旅客自動車運送事業
・福祉サービス事業 他
働くとは傍を楽にすることなり ~地域の役に立つ生活支援企業を目指して~

日本一暑いまち。古くは美濃焼の産地として知られ、2007年8月には国内最高気温40.9度を記録したことで有名になった岐阜県多治見市には、ラクダのマークを目印とする一風変わったタクシー会社がある。コミュニティタクシー、通称コミタクと呼ばれるその会社は「地域の足になる」べく“市民タクシー構想”を掲げ平成15年に立ち上がった生活支援企業だ。現在は地域の問題を事業で解決するためタクシー事業を含む5つの事業部を走らせている。

取材の日、コミタクに乗りコミタク本社へと向かう道中ハートフルドライバーさん(コミタクでは乗務員をそう呼ぶ)からあるおもしろいエピソードを伺った。

「先日若いお客様から“自分もコミタクに乗せてもらえるか”と聞かれましてびっくりしました」。

利用者の立場に立った手厚いサービスでシニアを中心に支持されているコミタク。70歳以上を対象とした、運賃の割引を受けられるシニアカード会員は現在会員数約4,200人。シニアの方が利用する姿を見慣れていたその若者は、コミタクを若い自分も利用できるのか不安に思ったという。

理念なき事業での失敗と、気付いた志

「僕は在日韓国人三世です」。

コミタクの社長である岩村龍一さんは講演など人前で話すとき、必ずそう名乗る。岩村さんの父親は窯業の原料商として岩村さん曰く「一山当てた」人だった。岩村さん自身も大学を卒業するまでお金に苦労することは一度もなかったそうだ。

「男気のある人で、やんちゃだったけれど、とにかく人望は厚かった」。同時にお年寄りを本当に大切にしていたという。「韓国の儒教の流れを汲んでいたからでしょう、祖父母のこともとても敬っていました」。

岩村さんは昭和33年多治見に生まれ、多治見で育った。大学卒業後、地元ダンボールメーカーに勤めるも3年で退社。フリーターとなり、アルバイトを転々としていた。そんなある日、母親から衝撃の事実を知らされる。

「お父さんの会社が危ないらしいのよ。」
「え!危ないって。」
「売上は上がらないのに借金だけがあるみたい。」

それをきっかけに自然と父親の会社を手伝うようになり、26歳のときには、もっと自分の思うように経営がしたいと勝手に父親を引退へ押しやり社長を引き継いだ。当時は原料商から原料を運び出す運送業に事業をシフトしていた時期だった。社長を継いだ結果、会社は右肩上がりの成長を遂げ、30歳の頃には年商1億5,000万円、従業員20人弱となるまでに至った。

「天狗の鼻はスクスクと伸び、外車を乗り回し、夜な夜なスナックに通い遊んでいましたね」。

しかしその先は急な下り坂が待ち構えていた。父親の残した借金は1,800万円。それが数年の間に7,000万円まで膨れ上がっていた。

「あれ?と思ったときには遅かったですね。どんどん物事がうまく進まなくなり、銀行からも冷たくあしらわれ、人も去っていきました。おまけに家庭もうまくいかなくなり、毎晩、酔いつぶれて深夜に帰宅するような生活をしていました」。

追い込まれた結果、すべてを清算させようと、2億円の生命保険へ入った。

「でも、死に方を考えているうちは死ねる訳はないんですよね」。

そんな折、岩村さんは地元に住む先輩経営者と運命の出会いを果たす。その先輩と一緒にトラックで出かけたときのこと、先輩から何気なく発せられたある一言が岩村さんの心に大きく響いた。

「龍ちゃんよ、人間生きるっていうことは志の問題だぞ」。

その言葉を聞いた岩村さんはハンドルを握りながら涙をポロポロこぼした。

「このままの自分ではいけない!」

岩村さんは心からそう思えたという。

心ある人々に助けられ、無一文で開業

岩村さんは一緒に勉強会を行っていた運送業者組合の仲間たちと、東京にある多摩ニュータウンで活躍する「孫の手サービス」という便利屋事業へ見学に行く機会を得た。それは運送業者の社員がエレベーターのない鉄筋コンクリート4階建ての4階に住む足の弱ったおばあちゃんから、ゴミ袋2つをゴミ集積所まで持っていってくれないかと頼まれたことから生まれた事業だった。岩村さんがなにより心惹かれたのは楽しそうに仕事をする社長の姿だ。

「人に喜ばれてお金もいただける、こんなに楽しいことはない」。

それを聞いて岩村さんは早速多治見で便利屋事業を立ち上げた。さらに飲酒運転の取締強化により地域からドライバー派遣のニーズが出てきたことと、運輸局の規制緩和によって参入しやすくなったことから、タクシー事業へ乗り出すこととなった。参入を決めたポイントは、ニュータウンとして開発され、高齢化の進む多治見においてタクシー事業を立ち上げることは、地域みんなの足になることができると強く感じたからだった。

「もう一度事業を始めるときに、自分のこれまでの経験を踏まえて、やっぱり銭じゃない、お金じゃない。その部分を大事にしようと思いました」。

しかし会社設立には資本金がいる。借金返済のためお金がなかった岩村さんは市民タクシー構想を掲げ、「自分が地域をよくするから出資をしてほしい」と説いて回った。

「青臭いと一蹴されるかと思っていましたが、“お前の言う通りだ”と多くの方から出資をしていただけました。」

田舎に暮らす伯母は、事業計画書を持ってお願いにいった岩村さんに何も言わず300万円を貸してくれたという。

「このときは伯母に助けてもらったけれど、その伯母の信頼を得ていた親父にも助けられているんだと感じました」。

多くのご縁をいただいた結果、合計40人、1000万円の出資金を集め、平成15年1月に株式会社コミュニティタクシーは設立された。

新しい価値観の勝ち組へ、挑戦は続く

早速20名弱の社員を雇うことになったが、集まったのは「いかにも人のよさそうな顔ぶれだった」。リストラされたゴルフ場の支配人や喫茶店を自主廃業した人、ガソリンスタンドをつぶして自己破産をした人、早期退職勧告で誰も手を挙げなかったため自分から犠牲になった人。誰もが、いわば経済社会の「負け組」だった。岩村さんは

「俺も同じ負け組だ。新しい価値観の勝ち組になって社会にリベンジしてやろう!」

と社員に訴え、盛り上がったという。そこで起業支援ネット久野がサポートに入り、社員全員参加・ワークショップ形式でサービスマニュアルを作成することとなった。

「やる前からできないと言うな、ということだけ言って、あとはすべて社員に任せました」。

その結果、玄関までのお出迎えには2人入れるゴルフ傘を使うなど素人目線だからこそできるサービスを完成させることができた。そして、平成15年4月に開業。しかし困難は続く。タクシー事業の営業許可取得が大幅に遅れたことと、昼間の利用が伸び悩んだ結果、すぐ資金ショートをしてしまったのだ。そこで出資者を73名まで増やし、1,500万円の増資を得て、「会社をつぶしてはいけない」とがむしゃらにがんばった。そうしてなんとか経営を軌道に乗せるまでに至ったのである。

「7周年を迎える今もまだ資金繰りには頭を抱えている」

と岩村さんは笑うが、野望はまだまだ尽きない。

「コミタクは誰のものかと考えると、もちろん株主のものですが、しかし同時に社員のものでもあり、地域のもの、社会のものでもあります。何のための会社かと聞かれたら、それは世の中をよくするため。もちろん存続するために利益を上げることは必要ですが、それは目先の利益ではなく、継続するための利益。自分が死んでも、会社が継続してよい影響を世の中に与え続けること。コミタクのおかげでこのまちがよくなったと言われることが僕の夢です」。

現在コミタクは生活支援、外出支援、介護支援の3つの柱の下、事業を運営している。生活支援では便利屋事業部を、外出支援ではタクシー事業部、貸切バス事業部、乗合バス事業部を、介護支援では地元の建設会社と連携して「コミュニティケアたじみ」という介護サービス事業を展開している。

「地域の人が必要とするなら、コミタクの理念に基づいて今後どんな業種でも展開していきたい」。

そう話す岩村さんの挑戦は続いている。

例えば今後需要が伸びることは目に見えているけれど、既存のビジネスモデルでは採算を合わせづらい介護移送事業。岩村さんはこの分野において同業他社6社との共同出資による介護移送専門の会社を設立した。これにより事業者側は効率がよくなり、利用者側は窓口が一本化され便利になり、行政も補助をしやすくなるという仕組みができたのだという。まさに三方よしの結果を生んだのだった。

「僕が子供の頃はよいバランスでまちは成り立っていました。独居老人の面倒を誰が見ていたかというと、行政でもボランティアでもなく、まちの酒屋さんが御用聞きのついでに「ばあちゃん、生きとるか」なんて憎まれ口をたたきながら面倒を見ていたのです。相互扶助の精神ももっとありましたし、感謝の気持ちもありました」。

商売がまちを本当の意味で支えていた景色は今でも岩村さんの中で色褪せてはいない。商売を通して人々がつながり直す。そんな社会を取り戻すための旗振り役として、父親直伝の礼儀正しさと、男気を発揮しながら、今日も岩村さんは多治見のまちを走っている。

取材・文/伊東かおり 写真/河内裕子(写真工房ゆう)

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